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会員卓話 『称念寺の歴史』 髙尾誠会員

高尾誠会員

☆☆☆☆☆ 3月14日(水)☆☆☆☆☆  
 
会員卓話 高尾 誠 会員
 『 称念寺の歴史 』

称念寺の住職と言いたいのですが、父が93歳で元気なのでまだ、私は副住職です。お坊さんは定年がありませんので、働ける間は現役です。
今月は「青少年育成月間」と言う事で「新田義貞公」の話をしたいと思います。

千数百年の歴史を20分で話さなくてはいけないのでお手元の資料を参考にしながら端折って、端折って話をしたいと思います。
称念寺は中世には長崎道場と呼ばれお念仏の道場でした。鎌倉時代末に一遍上人という方が出ました。踊り念仏をしながら布教を勧めた方です。踊りで救われるのではなくお念仏を勧める為のPRの方法として踊念仏をしました。人が集まる所に道場を造ります。以前は豊原と長崎に北陸街道がありましたので一番中心地でした。
縁起によれば当地長崎が湖のほとりにあったころ白山権現がこの地に渡来した際、着岸した旧跡であったといいます。また泰澄大師というお坊さんがこの地を訪れ、養老5年(721)元正天皇の勅願を受け、阿弥陀堂を創建したと記録してあります。称念寺は泰澄大師が開いた、泰澄大師が舟を着けて松の木に結んだという松が江戸時代まで残っていたそうです。湖の長い岬があったところが『長崎』で、舟を寄せた所が『舟寄』になったと書いてあります。昨年パイプラインの工事をしていますがそこに縄文遺跡が出ました。縄文時代に人が住んでいたという事は湖や川や山があったと言う事です。以前に継体天皇の卓話を聞いた時に古代の越前平野が出ていました。やはり伝説とか伝承というものは大事にしなければいけないなと思いました。
鎌倉時代にはいろいろな宗派が出ました。道元が曹洞宗を開く。親鸞が浄土真宗を開く。時宗、日蓮宗など鎌倉時代は日本の歴史の中でも著名な宗教家が現れた時代です。
正応3年(1290)時宗(一遍上人が開く)の二代目の他阿(真教)上人が越前地方を遊行(おしえをひろめる旅をすること)のさい、当地の称念房が他阿上人をしたって建物を寄進したといいます。末の弟道性房は光明院という倉を寄進し、弟の仏眼房は私財一切を寄進したと伝えられています。光明院の倉とは単なる建物ではなく商業の銀行をさしていました。
大乗院文書から、称念寺の経済は海運業にたずさわる人によって支えられてきました。坂井平野は九頭竜川、竹田川、兵庫川が物流の大動脈となり、そこに舟を持っていたと言う事は今で言う商社、お寺が商社をしていたと言う事です。中世のお寺は舟を持ったり、倉を持って商業で栄えて、人々に信仰を伝えていました。今ある檀家制度は江戸時代になってからです。
鎌倉幕府も北条高時の頃になると、足利と新田は争いとなり、南朝と北朝に別れ日本中を巻き込んだ戦乱の世になりました。ここ越前地方もそうした戦乱の舞台になりました。新田義貞は灯明寺畷の戦いで戦死しました。
新田義貞は称念寺の住職と古くより交友を深めていたので、その遺骸は時宗のお坊さん8人にかつがれて手厚く葬られました。武将はお坊さんを連れて歩いていました。今もアメリカ軍のイランに行きますと従軍僧(牧師)と連れています。イギリス軍でも牧師さんは連れて行きます。この様なお坊さんを陣僧といい、武将が亡くなると菩提を弔う、怪我をすると手当てをする。戦線が膠着して来ると調停役をする。今で言う日赤奉仕団です。
戦線が長引いて膠着状態になると、和歌をしたりお茶をしたり連歌をしたりします。お坊さんは中立で道場に逃げればそれ以上は追いかけない。新田義貞公が敗れると家来達が長崎道場で出家したと書いてあります。
時宗のお坊さんは非常に危険な所に出かけていた。お寺を造るよりも出かけて現地で布教する事が一遍上人の教えであるといわれ、布教に力を入れていました。このようなお坊さんは情報を一杯持っていました。伝え・記録をします。従軍僧であり、ルポタージュですね。このような情報が【太平記】であり【平家物語】となるのでしょう。中世の時代の戦いの事を知れるのはこのような記録があるからです。
徳川時代になると戦乱もおさまり、徳川の先祖は新田義貞ということで、称念寺を大切に保護しました。
しかし明治の版籍奉還により、無檀家無俸禄になり、経済的にピンチにおちいりやがて称念寺には住む人もなくなりました。しかし、新田義貞をしのぶファンや称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせ、大正13年(1924)にようやく再建しました。
 ところが、昭和23年6月28日にこの地方を襲った福井大地震により再び称念寺は壊滅的な打撃を受けました。檀家がないため一時は存続すら危ぶまれましたが多くの人々の協力により、今日までかかりようやく復興ができたのが現在の称念寺です。そのため規模や様子は大きく変わりましたが、新田義貞の菩提寺として訪れる人の多い寺として現在にいたっています。
鎌倉時代から、室町時代の南北朝時代といわれる全国的な動乱の時代です。皇族は勿論のこと、公家も、寺社勢力も、(武士)豪族たちも、両朝のいずれかに属して対立しました。南朝方の武士の中心が、新田義貞公、北朝方の武士の中心が足利尊氏です。
足利氏は天下の豪族に「利益」をもって処遇しましたが、南朝の頼るところは「名分論」に過ぎません。北朝のために戦えば領土は増えるし、敵方から略奪もできます。南朝のために戦っても、ほとんど実利につながりません。ところが南朝の側にあって、身命をささげ滅びていった人々は決して少なくありません。その代表が、一族を挙げて戦った新田義貞公です。南朝に準じた人々は、剛毅不屈、正義を信じて愚直に戦いました。その盛大な理想精神は、心ある人々の胸の中に沈潜して、脈々と伝えられました。これは、『太平記』をはじめとする優れた書物・詩歌の類の影響も大であったでしょう。
新田義貞公をはじめ南朝の健闘むなしく、時代は理想どおりには行きませんでしたが、その理想・精神は歴史に大きな成果を残されたのです。利に走りすぎた現代だからこそ、新田義貞公の生きざまが参考になるのでしょう。

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