水﨑亮博会員卓話『有馬家3代とキリシタン』

水﨑亮博 会員8月7日(月)の例会では水﨑亮博会員に『有馬家3代とキリシタン』というテーマで、丸岡城の歴史ついて本多家ではなく有馬家の事に関しての卓話を聞かせて頂きました。

島原の乱と有馬家

・キリシタンの反乱  かつての領民や家臣を的にしての戦い
・幕府方13万人   一揆勢37,000人を一人残らず殲滅した壮絶な戦い
・島原が有馬の発祥の地であり原城があったあたりで在地領主をされていた
・1500年ころ 肥前国(長崎)の南部5郡を領有する戦国大名として発展
その後、龍造寺隆信の攻撃を受けて領地縮小の歴史がある
・有馬家は3代続き79年の間に3回領地が移る
・丸岡では本多家の話はよく上がるが、有馬家の話は少ない
この事からは有馬家というのは名前こそ有名ではないが、丸岡の歴史を語るうえで非常に不可欠な存在だったのだと思え、有馬家への関心が深まっていきます。

 

有馬晴信

口之津を開き南蛮貿易を推進、日野江に神学校セミナリオ開設。自分も洗礼を受け熱心なクリスチャンになる

領内の寺社を廃止し、焼く。南蛮貿易で富を築く、鉄砲、大砲の武器を手にするイエズス会(武器供与)、島津と組んで龍蔵寺隆信を滅ぼすし,領土回復(1584)豊臣秀吉の九州平定に加わり、島津と敵対。

天正14(1586)関ケ原の戦いでは東軍に組するマードレ・デ・デウス事件(1609)

最後は岡本大八事件に連座して死罪に処される。

有馬直純

27歳で 国姫と結婚 (前年に前夫人と離婚)国姫(日向御前)

桑名藩主本多美濃守忠政(妻は家康の長男信康の娘)の娘 一度嫁いだが離縁して駿府城に戻る

有馬康純

大きな社会変動なく延岡での太平な時代

有馬永純

糸魚川移封 原因は山陰(やまげ)事件 郡代梶田十郎左エ門の過酷な取り立て

山陰村の農民1500人(国情遺聞では379人)が隣地の高鍋藩秋月家に逃亡

藩の調停能力なし、

百姓の申し立てを理解できない(高鍋藩を通じて調停)、藩内の意見対立(大目付林田、出田、伊東が言上)

幕府が調停,裁可

有馬清純 丸岡入府

元禄9年8月(1696)入府を機に清純と改名

青信御霊社 東照宮 高岳寺 白道寺 台雲寺を丸岡へ移転

財政難 大量解雇

元禄10年 諸士33人

元禄12年 足軽 75人 同13年諸士など22人

計 諸士242人 その他296人

 

禄高の借り上げ 藩札の発行(大庄屋、商人から借入れ 組頭制度 野中山王組(11)、末政(11)、一本田(11)、上金谷(13)、長畝(11)、女形谷(8)、石塚(7)、瀧谷(11)、合波・大門(2)

一準(かずのり)6歳で家督を引き継ぐ 15歳のとき譜代格に、帝冠間席を受ける

 

 


《会員感想》

丸岡の歴史を考えるにあたり、本多家などの話を聞いているよりも、今回の卓話を聞かせて頂いて、わずか80年ぐらいの間に有馬家の動きにより大きな歴史の中で丸岡に携わる有馬家がどのように生き残ってきたか。そして丸岡にやってきたか。よく理解できました。もっと調べてみたいという興味もわきました。歴史の事では大きな事件などしか取り上げられていませんが、その中で丸岡に所縁のある人たちがどのように動いていたか。そしてどの様な人生を送ってきたのか非常に楽しい卓話でした。

(文責 笹埜 博)

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